15年目
- 聡 坪井
- 3月13日
- 読了時間: 3分

3月11日からもう2日が経ってしまいました、皆さん黙とうはしましたか?
私も当日の同時刻にしていました。14年経っても色褪せない、想いは生き続ける。
14年前の今日だって、まだ余震が続いてました。
震災の翌日、良く晴れた日でした。家の瓦がずれたので屋根によじ登って修理をしていたら、母が血相変えて「原発が爆発した」って。
時間が経った今では当時何が起きていたのか分かっていますが、その当時は初めて尽くしで混乱していました。夜になって大熊町から避難してきた人たちが体育館で夜を明かすってことで母が家にある毛布をありったけ持って行ったのを思い出します。
次の日の早朝、原発に向かう電源車が列をなして向かっていくのを見送りました。
テレビでは原発の状況がずっと報道されていてヘリコプターから放水される映像が流れ、自衛隊の人たちが見えない放射能と戦っていました。
私の家はというと妻が二人目の子を身籠っておりまして、臨月でした。郡山の産婦人科では震災直後ということで水が止まっており、出産する設備もうまく整っていないと心配な連絡があり、そこにきて14日に3号機の爆発。15日に東北新幹線が那須塩原から動くという情報があり、妻の実家(関西)で出産する決意をしました。
当時政府からの避難指示で20キロ圏内の人々は次々に避難しており、40キロ圏内にある我が家も出産の心配もあって持てるだけの荷物で飛び出しました。
当時の国道4号線はボコボコの道路と瓦礫の街並みでした。なんとか駅までたどり着き、
いつ戻れるかもわからないままパーキングに車を置いて新幹線に飛び乗りました。
郡山までは電柱が傾いていて新幹線が通れなかったとの記憶が残っています、うちの近くの線路にもしばらくその場で止まったままの電車がありました。
名古屋駅に着いたのは夜でしたが、そこには日常がありました。
こんなにもギャップがあるものかと驚愕したのを覚えています。
翌日妻を連れて病院を探し、出産準備をできるだけ整えました。
長男と二人で買い出しに行ったとき、小さいながらに「大丈夫だよ」
って言ってたの、思い出しました。
あの時先行きが見えない故郷を思っていた心情を子供ながらに読み取っ
っていたのでしょうかね。
福島から避難してきた日は息子の誕生日でした。
テレビで原発の情報が
関西でも震災の報道はありましたが、地元ほどの情報量はなく、少しでも情報
が欲しくて新聞をむさぼり読んでいました。
そうこうしているうちに18日無事妻が次男を出産となりました。バタバタでしたが
何とか受け入れてくれた病院に感謝です。
そんな長男も今年高校を卒業して大学生。卒業旅行で韓国に行くそうです。
次男坊も中学3年生になります。
新しい家族も増えました。
そういえばあの時、銭湯に行って「福島から来た」って伝えたら無料で入れてくれたおかみさん、ありがとう。
私の震災エピソードでした。
毎年、思い出します。そして聞きます。「あの日、何してた?」
♪花は咲く @花は咲くプロジェクト
Comments